
が「私たちは幼稚園児じゃないぞ」とつぶやいた。きれいに使うべきだということは誰も分かっている。同時に、青年が日頃から公共性に欠けている傾向があることも頷かざるを得ない。しかし、もうちょっとなんとかならないのかな、というのが率直な感想である。
お酒についても考え方次第だと思う。酔って周りに迷惑をかけるのは、青年の家であろうがホテルであろうが居酒屋であろうが、もともとダメなのだ。問題はお酒の飲み方にある。なごやかで楽しい飲み方もある。特に集団活動の場ではそれが豊かな潤滑油にもなる。飲み過ぎや多少の失態を指摘し、注意し合うこともりっぱな体験学習だ。どっちに転ぶか分からない酒。悪い場合の心配ばかりせずに、おおらかな態度で臨んでみてはいかがだろう。自由にさせたうえで、失敗からも本人が自主的に学ぶことが、いわば大人の社会性だろう。
■「訓練」から脱皮し、自主性重視へ
これら青年の家に固定されたイメージは、いったい何に由来するのだろう。国立青年の家が創設されて以来、その目的とされた「団体宿泊訓練を通じて健全な青少年の育成を図る」という規定に、その精神は一貫して流れているようだ。特に「訓練」という要素が重要視される限り、基本的姿勢は変わらないような気がする。
本来、青年は訓練されるために青年の家に行くのだろうか。そうではない。青年が集団活動によって身につける仲間との連帯や共感、社会性などは、他律的に訓練されるものではなく、自立によってこそ保証される。青年の関心が多様になり、権威による動機づけが困難になりつつある現在、青年の家関係者は「訓練」という概念からくる規制・制約の当然視をいま以上に改め、青年の自主性を大切にし、成長・発達を援助する視点を重視すべきではなかろうか。
同様に、朝夕のつどいにしても、青年には違和感があってなかなかなじめない。利用者同士がお互いに知り合い交流することはもちろん大切であるが、つどいで行う国旗の掲揚などは唐突すぎる感を否めない。「祖国愛」を育てるという元々の趣旨と、学校教育の現場でも同様ではないかという意見があるかもしれない。しかし、青年の家で敢えてそれをやる必要があるのだろうか。公立だから、という理由しか私には思いつかない。県庁、市役所などすべての公立施設で朝夕のつどいをやることになると、当然さまざまな異論が飛び交うに違いない、青年の家もそれと同じことだ。
■多面的な要求への対応を
あわせて言えば、訓練の場だという意識は、施設の機能面の利便さや食事など快適性を軽視することにもつながりやすい。世の中がここまで贅沢になっている現在、「安かろう、悪かろう」だけでは青年の感受性に合わない点もでてくる。ハードとしての施設改善はかなりの予算を必要とするが、食事や寝具など、アメニティに関わる分野については、若干料金が上がっても向上させるべきだと思う。
また、泊まりを前提とした利用が多いようだが、これをもっと弾力的に考えられないだろうか。青年団体にとって、活動の拠点となる施設は欠かすことのできない条件となる。多くは公民館やコミュニティセンターなどを利用しているが、一番のネックになるのは夜の9時か10時にはそこを出なければならないことである。会議にしても、取り組みの準備にしても、平日、青年が仕事を終えて集まれば、8時過ぎになる
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